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東京地方裁判所 平成10年(ワ)143号 判決

主文

一  原告(反訴被告)の請求を棄却する。

二  反訴被告(原告)は、反訴原告(被告)に対し、三六万二二九六円及びこれに対する平成九年一一月一日から支払済みまで年六分の割合による金員を支払え。

三  反訴原告(被告)のその余の反訴請求を棄却する。

四  訴訟費用は、本訴反訴ともに、これを一〇〇分し、その一を被告(反訴原告)の負担とし、その余を原告(反訴被告)の負担とする。

五  この判決の第二項は、仮に執行することができる。

事実及び理由

第一  請求

一  本訴請求

被告は、原告に対し、六六二二万六七〇四円及びこれに対する平成九年一一月一日から支払済みまで年一八・二五パーセントの割合による金員を支払え。

二  反訴請求

反訴被告は、反訴原告に対し、二一一万二八三一円及びこれに対する平成九年一一月一日から支払済みまで年六分の割合による金員を支払え。

第二  事案の概要

本件は、建物の賃借人であった原告(反訴被告、以下「原告」という。)が、競落により建物の所有者となった被告(反訴原告、以下「被告」という。)において原告が旧賃貸人(旧所有者)との賃貸借契約に基づいて差し入れていた敷金返還債務を承継したと主張して、被告に対し敷金返還請求として敷金残額六六二二万六七〇四円及びこれに対する弁済期(建物の明渡し)の翌日である平成九年一一月一日から支払済みまで約定の年一八・二五パーセントの割合による遅延損害金の支払を求め(本訴請求)、被告が原告に対し、建物の賃貸借契約に基づいて、被告が建物の所有者となった平成九年六月三日から原告が建物を明け渡した同年一〇月末日までの賃料及び共益費の残額として二一一万二八三一円(同期間の賃料等合計九二五万二八三一円から原告が賃料等として弁済した七一四万円を控除した残額)及びこれに対する弁済期後である平成九年一一月一日から支払済みまで商事法定利率年六分の割合による遅延損害金の支払を求めた(反訴請求)事案である。

一  争いのない事実等

1  原告は、平成二年八月一〇日、不動産の賃貸等を業とする会社である株式会社三和産業(同社は同年一〇月一六日に株式会社サイトピアと商号を変更した。以下「訴外会社」という。)との間で、別紙物件目録一〈略〉の建物(以下「本件建物」という。)の一、二階のうち一階部分八五・九四六平方メートル及び二階部分八七・二〇二平方メートル(以下「本件賃貸借物件」という。)を次の約定で賃借する旨の契約(以下「本件賃貸借契約」という。)を締結した(甲一、三)。

(一) 使用目的 フライドチキン等の販売及びフライドチキン等を主体とした飲食店の営業

(二) 期間 引渡しを受けた日から満一〇年間

(三) 賃料 月額一七〇万円 毎月末日翌月分払い

(四) 共益費 月額一八万三三一六円 毎月末日翌月分払い

(五) 消費税の転嫁 原告は訴外会社に対し、賃料及び共益費に加えて消費税相当額を支払うものとする。

(六) 期間内解約 原告は三か月前の解約予告により期間内解約ができる。

(七) 遅延損害金 日歩五銭(年利一八・二五パーセント)

2  原告は、本件賃貸借契約締結の際、訴外会社に対し、次のとおり、敷金の名目で一億八〇〇〇万円(以下「本件預託金」という。)を差し入れる旨の合意(以下「本件合意」という。)をした(甲一)。

(一) 差入方法

平成二年八月一〇日 三〇〇〇万円

同年九月一七日 一億五〇〇〇万円

(二) 充当方法等 原告に賃料の延滞、損害賠償その他本件賃貸借契約に基づく債務の不履行があるときは、訴外会社は何等の催告を要せず、敷金(本件預託金)をこれに充当することができる。

原告は敷金(本件預託金)をもって賃料その他の債務と相殺し又は充当を要求することができない。

(三) 返還時期 訴外会社は原告に対し、本件賃貸借契約が終了したときは、原告が本件賃貸借物件を明け渡すと同時に敷金(本件預託金)残額全額を返還するものとする。

(四) 敷金の償却 本件賃貸借契約が原告の更新拒絶による期間満了により終了する場合、又は賃貸借期間中に原告の都合により中途解約する場合、あるいは原告の債務不履行等により同契約が解除された場合には、訴外会社は敷金(本件預託金)から一〇〇〇万円を償却費として取得できる。

(五) 抵当権設定 訴外会社は原告に対し、敷金(本件預託金)返還債務を担保するために別紙物件目録二〈略〉の各不動産(以下「本件抵当不動産」という。)に順位二番の抵当権を設定し、賃貸借開始日に速やかに抵当権設定登記手続をなす。この費用は原告の負担とする。

(六) 期限の利益喪失 訴外会社に支払停止・支払不能があったとき、訴外会社が本件建物を第三者に譲渡したとき、訴外会社が本件賃貸借契約上の地位を第三者に譲渡したとき、本件建物について差押、任意競売、強制競売、公売の申立てがあったときは、何らの通知催告なくして、訴外会社は敷金(本件預託金)の返還について期限の利益を失い、敷金(本件預託金)全額を直ちに原告に返還するものとする

3  原告と訴外会社は、本件合意に基づいて、本件預託金の返還債務を担保するため、訴外会社所有の本件抵当不動産に順位二番の抵当権を設定し、その旨の抵当権設定登記手続をした(乙二ないし五)。

4  ニューハイム建設株式会社(以下「ニューハイム」という。)は、本件賃貸借契約締結の際、原告に対し、訴外会社が本件賃貸借契約に基づいて原告に負担する一切の債務を連帯保証する旨を約した。

5  原告は、訴外会社に対し、本件合意に基づいて、平成二年八月一〇日に三〇〇〇万円を差し入れ、同年九月一七日に一億五〇〇〇万円を差し入れた(甲一、一四、弁論の全趣旨)。

6  本件賃貸借契約が締結された当時には、本件建物は建築中であったが、平成二年九月二一日には竣工し、同年一〇月五日に訴外会社名義の保存登記がなされ、訴外会社は、本件建物の所有権を取得した(甲二、弁論の全趣旨)。

7  訴外会社は、平成二年一〇月一日、原告に対し、本件賃貸借契約に基づき本件賃貸借物件を引き渡した(甲一三、弁論の全趣旨)。

8  本件建物について抵当権を有していた日本抵当証券株式会社(以下「日本抵当証券」という。)の申立てにより、訴外会社を債務者、原告を第三債務者として、平成四年七月一七日付で東京地方裁判所から、原告が訴外会社に支払うべき本件賃貸借契約にかかる賃料を仮に差し押さえる旨の債権仮差押決定(平成四年ヨ第四九九一号)がなされた。

9  訴外会社は平成四年一月二〇日が支払期日の利息等五一八七万円を支払わず、担保不足が三億円に上り、年間二億四〇〇〇万円の赤字を出して、回収の見込みが立たなくなり、平成四年七月一七日の時点で支払停止・支払不能に陥った(甲一五の一、二、弁論の全趣旨)。

10  原告は、訴外会社が支払不能に陥り、本件建物の管理ができなくなったことから、訴外会社及びニューハイムとの合意に基づいて、ニューハイムに対し、本件賃貸借契約に基づく平成四年八月から平成九年五月分までの共益費を支払った(甲一六ないし一八、弁論の全趣旨。なお、甲一六号証は、甲一八号証及び弁論の全趣旨により真正に成立したものと認められる。)。

11  東京地方裁判所は、平成六年三月一日、抵当権者であった日本抵当証券の申立てにより、本件建物及びその敷地について競売開始決定(平成六年ケ第七六八号)をした。

被告は、平成九年六月三日、右競売による売却により本件建物及びその敷地の所有権を取得し、同月四日には、本件建物等について、被告名義の所有権移転登記がなされた。

本件建物及びその敷地に設定されていた日本抵当証券等の抵当権はいずれも、原告が本件賃貸借契約に基づいて本件賃貸借物件の弘渡しを受けた後に設定されたものであることから(甲二、八)、被告は、右競売による売却により本件建物の所有権を取得したことに伴い、同建物の旧所有者である訴外会社と本件賃貸借物件の賃借人である原告との間の本件賃貸借契約から生ずる一切の権利義務(賃貸人の地位)を承継した(ただし、被告が訴外会社の本件預託金返還義務を承継したかどうかについては、後記のとおり、争いがある。)。

なお、被告は、原告と訴外会社との間の本件賃貸借契約は、被告が本件建物の新所有権者になったことに伴い、原告との間に本件賃貸借物件についての新たな賃貸借契約(同契約には敷金に関する合意はない。)を締結したのであって、これにより本件賃貸借契約は終了していると主張するが、これを認めるに足りる証拠はない。

12  原告は、平成九年六月二日付けの内容証明郵便で、訴外会社に対し、本件預託金債権と訴外会社の本件賃貸借契約に基づく平成九年六月分(弁済期は同年五月末日)の賃料(消費税を含む。)債権一七八万五〇〇〇円を対当額で相殺する旨の意思表示をし、右郵便は同年六月四日に被告に到達した(甲七の一、二)。

13  原告は、平成九年七月二三日付けの内容証明郵便で、被告に対し本件賃貸借契約を平成九年一〇月末日をもって解約する旨の意思表示をし、右郵便は同年七月二五日に被告に到達した(甲一二の一、二)。

14  原告は、被告に対し、本件賃貸借契約に基づく賃料として平成九年六月一二日から同年八月二八日の間に次のとおり合計七一四万円を支払った。

(一) 平成九年六月一二日 一五〇万円

(二) 同年六月三〇日 一五〇万円

(三) 同年八月八日 一五〇万円

(四) 同年八月二八日 二六四万円

15  原告は、平成九年一〇月末日までに、本件賃貸借物件の現状回復工事を行い、同日をもって、被告に右物件を明け渡した。

16  被告は、反訴請求事件において、本件建物の共益費を面積八二・八二平方メートル(一区画)に対し月額三万六七五〇円(消費税別)と定めた(共益費の金額を減額した)として、原告の本件賃貸借物件にかかる共益費は月額九万〇五七四円(消費税込み)と計算して請求しているところ、原告は、平成一〇年五月七日の本件口頭弁論期日において、被告に対し、原告の本件預託金債権と被告の本件賃貸借契約に基づく平成九年七月分から一〇月分までの四か月間の共益費合計三六万二二九六円の債権を対当額で相殺するとの意思表示をした。

なお、本件賃貸借契約に基づく平成九年六月分の共益費は未払である。

17  被告は、平成一〇年七月二九日の本件弁論準備手続期日において、原告に対し本件預託金返還請求権の消滅時効(商事時効)を援用する旨の意思表示をした(なお、原告が当裁判所に対し本訴を提起したのは、平成一〇年一月八日である。)。

二  争点

1  本訴請求事件の争点

(一) 本件預託金返還債務は被告に承継されるべきものか。

(1) 本件預託金は法的意味での敷金(賃貸借契約終了後建物明渡義務履行までに生ずる賃料債権その他賃貸借契約により賃貸人が賃借人に対して取得する一切の債権を担保するものであり、敷金返還請求権は賃貸借終了後建物明渡完了の時においてそれまでに生じた右被担保債権を控除しなお残額がある場合に、その残額について具体的に発生するものであって、賃貸借継続中に目的不動産の所有権が移転され、これに伴い新所有者が賃貸人の地位を承継する場合には、旧賃貸人に差し入れられていた敷金は、同人のもとに未払賃料等があればこれに当然充当され、なお敷金に残額があるときは、これについての権利義務関係は新賃貸人に承継されるべきもの)であるか、あるいは建物の新所有者に承継されない性質の建設協力金もしくは融資金としての性質を持つ保証金であるか。

(2) 被告が本件建物の所有権を取得したときに本件預託金返還債務の弁済期が到来していた場合にも、被告は右建物の取得とともにこれを承継するものであるか。

(3) 本件合意に基づく本件預託金返還請求権の期限の利益喪失条項は、当該喪失事由が解消されたときは、本件賃貸借契約が終了したときに本件預託金を返還することになるとの合意を含むものであり、これにより本件預託金の返還時期は本件賃貸借契約の終了時となったものであるか。

(二) 本件預託金返還請求権について、期限の利益喪失条項により到来した弁済期である平成四年七月一七日から本訴提起までに五年以上が経過したことによって消滅時効が成立するか(あるいは、本件合意に基づく本件預託金返還請求権の期限の利益喪失条項は、当該喪失事由が解消されたときは契約が終了したときに本件預託金を返還することになるとの合意を含むものであり、これによって本件預託金の返還時期は本件賃貸借契約の終了時となり、消滅時効は成立していないといえるか〔実質的な争点は、右(一)の(3)の争点と同じである。〕。)

2  反訴請求事件の争点

被告が原告に対し本件賃貸借物件について平成九年六月分から同年一〇月分までの未払賃料(消費税込み)及び共益費の合計二一一万二八三一円の債権を有しているか。

(一) 原告が訴外会社に対してなした本件預託金(敷金)返還請求権と訴外会社の本件賃貸借契約に基づく平成九年六月分の賃科(消費税を含む。)債権を対当額で相殺する旨の意思表示は有効か。

(二) 原告が被告に対してなした本件預託金返還請求権と被告の本件賃貸借契約に基づく平成九年七月分から同年一〇月分までの四か月間の共益費合計三六万二二九六円の債権を対当額で相殺する旨の意思表示は有効か(実質的な争点は、争点1と同じである。)。

3  なお、被告は、仮に本件預託金が法的意味での敷金であり、被告が本件預託金(敷金)返還債務を承継するとしても、被告に承継されるべき敷金部分の相当額は、社会常識等からみて多くとも本件賃貸借契約の賃料の一年分程度が限度であり、その額が二〇〇〇万円を超えることはない(したがって、右敷金額から被告が右債務を承継した際に滞納されていた平成九年五月分までの共益費合計額一〇九五万八六二九円及び本件合意に基づいて償却されるべき一〇〇〇万円を控除すると、被告が原告に返還すべき本件預託金〔敷金〕返還債務は存在しないこととなる)とも主張するが、そのように解すべき特段の事情を認めるに足りる証拠はなく、被告独自の見解というべきであって、採用することができない。

三  争点についての当事者の主張

1  争点1について

(原告の主張)

(一) 争点1の(一)の(1)について

本件預託金は、次のとおり、法的な意味における敷金である。

(1) そもそも、契約書上「敷金」と明記されている。

(2) 本件預託金が本件賃貸借契約の賃借人に対する債権の担保であることが契約書に明記されている。

(3) 本件預託金は、一定期間据え置いた後に返還する等、賃貸借の存続とは関係なしにその返還が定められる保証金とは異なり、本件預託金の返還時期は本件賃貸借契約が終了したときと定められており、本件預託金は賃貸借契約の存続と密接な関係に立つ性質を持っている。

(4) 本件預託金について、物件明細書では買受人は相殺後の残金について引き受けることとなるとされ、不動産評価書では本件建物の評価額は本件敷金を差し引いて算出されている。

(5) 本件建物が山手線新大久保駅前にあり、原告が賃借したのがバブル経済の時期であった平成二年であったことからすれば、敷金が高額であったことは何ら特異なことではなく、当時はこの金額が常識であった。

(6) 敷金は、担保といえども、その返還は金銭の返還であるから、貸金や売買代金等の返還と同じく物的・人的担保をとることは何ら常識に反することではない。

(7) 期限の利益喪失条項は、債権回収の危険もしくは紛争が生じることを慮って、原告の債権を保全するために定めたに過ぎず、訴外会社が本件建物を第三者に譲渡したとき及び本件賃貸借契約上の地位を第三者に譲渡したとき、本件預託金返還債務について期限の利益を喪失するとの特約は、新家主から明渡しを迫られたとき、嫌がらせをされたとき、敷金を引き継いでいないと主張されたとき、敷金が返還されない恐れが生じたときなどに、このような新家主に対抗し、敷金を保全するために、敷金の期限の利益を失わせて、新家主に対し賃料と敷金とを相殺できるように定めたに過ぎず、本件預託金は新家主に承継されることを当然の前提としての期限の利益の喪失である。

(8) 敷金や保証金の償却は、空き室補償、原状回復費用、賃借人の事情による賃貸借終了へのペナルティー等の趣旨で定められるものであるが、当該物件の立地・状況・内容、使用目的、継続期間、その他諸事情等様々な要素が勘案されて当事者の契約締結前の交渉によって決まるのであって、敷金又は保証金だからということで定まるものではない。

(二) 争点1の(一)の(2)について

被告は、次の理由により、本件預託金返還債務を承継したものというべきである。

(1) 不動産の所有権が譲渡され、賃貸人の地位が新所有者に移転した場合、法律に特段の定めがない限りもしくは契約条項が法津に違反して無効でない限り、もとの賃貸借契約の内容がそのまま賃貸人と賃借人の間の契約内容となる(これには当然遅延損害金の特約も含まれる。)。

(2) 本件預託金返還請求権の返還期限が到来していても、本件預託金が敷金であることに変わりはなく、敷金は承継されるのが法律上の原則であるから、承継されないようにするためには契約書に「敷金は新所有者や新賃貸人に承継されない。」と定める必要がある。

(3) 対抗力ある賃借人である原告のいる本件建物を競落した被告は当然に本件賃貸借契約の賃貸人としての地位を承継し、本件預託金(敷金)返還債務も承継する。

(4) 物件明細書でも「買い受け人は相殺後の残敷金について引き受けることとなる。」と記載され、不動産評価書でも、建物価格から原告の敷金一億一〇三〇万円を差し引いて、本件評価金額九九八〇万円を算出している。

(5) 被告は、物件明細書や評価書で競落人は本件敷金を引き受けるとされているのを認識し認容して本件建物を競落したのであるから、本件預託金(敷金)返還債務を被告が承継することになっても、被告が不測の損害を被ることはない。他方、被告が本件預託金返還債務を承継しないということになると、本件預託金の回収は不可能となり、原告は対抗力を有する賃借人であり、賃借権は保護されるものの、本件預託金(敷金)については保護されないという矛盾した結果となる。

(6) 敷金の当然承継を認める実質的な理由は、占有権原がありかつ対抗力のある賃借人を保護するためである。そして、原告は占有権原も対抗力もある賃借人であり、本件預託金(敷金)返還債務の承継を認める実質的な理由がある。

(7) 被告が本件預託金(敷金)返還債務を承継しないとすると、その結果は著しく正義に反することとなる。

(三) 争点1の(一)の(3)及び(二)について

被告が承継した本件預託金(敷金)返還債務は、次の理由により、その返還時期は原告と被告との本件賃貸借契約が終了したときである。したがって、本件預託金(敷金)返還請求権は、本件賃貸借契約が終了するまで権利行使ができなかったのであるから、被告の主張する消滅時効は成立していない。

(1) 原告と訴外会社との間では、訴外会社が支払不能に陥り、訴外会社の原告に対する賃料債権が仮差押を受けるという異常事態が生じ、正常の賃貸借関係ではなくなったため、本件預託金(敷金)返還債務について期限の利益が失われたが、本件建物を被告が競落により取得したことで、異常事態(賃貸人が支払不能状態にあること、賃料債権が仮差押を受けていること等)が解消されて、本件賃貸借契約は、正常の賃貸借関係に戻ったのであるから、これにより、本件預託金(敷金)の法的な性質は、その正常かつ通常の敷金に戻ったと解すべきである。

(2) 右解釈は、当事者の本件合意の際の意思にも合致する。即ち、本件合意における本件預託金(敷金)返還債務の期限の利益喪失条項は、賃貸人である訴外会社に支払不能等の一定の事由が生じた場合に、賃借人である原告の本件預託金(敷金)債権保全の必要上、賃借人が賃料債権等と本件預託金(敷金)債権とを相殺できるように本件預託金(敷金)返還債務の期限の利益を失わせるという趣旨である。したがって、その後、賃貸人に生じた事由が解消されたときは、賃借人の本件預託金(敷金)債権保全の必要性即ち本件預託金(敷金)返還債務の期限の利益喪失の必要性がなくなるのであるから、賃借人はそのまま本件預託金(敷金)の預託を継続する義務が生じるというべきであり、賃貸人にとっても賃貸借契約終了まで本件預託金(敷金)がそのまま預託されていることが利益となるのであるから、それが賃貸人の意思に合致するのである。

(3) 本件預託金(敷金)返還債務について期限の利益喪失条項を定めた当事者の意思は、当該喪失事由が解消されたときは、当初の約定どおり、本件賃貸借契約が終了したときに敷金を返還することになるという合意、即ち本件預託金(敷金)返還債務は、本来の法的性質に立ち返ることになるという合意を含むものであるから、本件預託金(敷金)返還債務の返還時期は、敷金の性質上当然に本件賃貸借契約終了時となったのである。

(4) なお、原告、被告及び訴外会社とも右のように解することによって何ら不当な利得を得、又は損失を被るものではない。

(被告の主張)

(一) 争点1の(一)の(1)について

本件預託金は、名目上、「敷金」となっているが、敷金であるかどうかは、名義、額と月額賃料に対する比率、敷金・権利金の交付の有無、賃貸借契約終了時の返還額、返還方法に関する特約(例えば、償却特約、据置特約、没収特約等の特約)、賃貸借契約上の賃借人の債務担保に関する特約の有無・内容、賃貸借の目的等の事情を考慮して判断されるべきであり、本件預託金は、次の理由から、その実体は法的意味の敷金ではなく、建物の新所有者に承継されない建設協力金もしくは融資金としての性質を持つ保証金というべきである。

(1) 本件預託金の金額は一億八〇〇〇万円であり、本件賃貸借契約の月額賃料が一七〇万円であることに比して高額にすぎる。

(2) 本件預託金返還請求権を担保するため、賃借人である原告のために抵当権が設定されるとともに、賃貸人の連帯保証人が存在している。

(3) 本件預託金については、賃貸人に支払停止等の事由があるとき、本件建物又は本件賃貸借契約上の賃貸人の地位を第三者に譲渡したときは、これを直ちに返還する特約がある。

(4) 賃借人の債務不履行や都合による中途解約はおろか、期間満了による終了の場合でも一〇〇〇万円を償却できるとされている。

(5) 物件明細書において本件預託金が法的意味の敷金であると認定されたとしても、物件明細書は権利関係を確定するものではない。

(6) 本件預託金返還債務の弁済期が賃貸借契約終了時とされているとしても、これをもって右債務が賃貸借契約と密接な関係にあるとはいえない。

(7) 本件賃貸借契約は、本件建物の他の部分の賃借人の賃貸借契約と、賃貸人の連帯保証人、保証金(本件預託金)の期限の利益喪失条項、解約時における一定額の償却の定め及び工事区分の約定等の点で異なっており、このことは、本件預託金の実体が建設協力金であることを強く示唆する。

(二) 争点1の(一)の(2)について

仮に本件預託金が法的意味の敷金であるとしても、本件預託金返還債務は、被告が本件建物の所有権を取得する以前に具体的返還請求権として発生していたものであり、もはや本件賃貸借契約に基づく賃借人である原告の債務を何ら担保するものではなくなっているから、被告が本件建物の所有権を取得したことに伴う賃貸借関係の承継によって被告が当然承継すべき債務ではない。

なお、物件明細書、不動産評価書に本件預託金は敷金であり、本件預託金返還債務が本件建物の買受人に承継されるべきものと記載されているとしても、右記載は権利関係を確定するものでも、保証するものでもない。

また、仮に被告が本件賃貸借契約に基づく賃貸人の地位を承継するとしても、合理的な範囲で本件賃貸借契約が承継されるにすぎず、賃貸借関係と関連の薄い事項である右契約における遅延損害金の特約は、被告による具体的引受がない限り、被告が承継するものではない。

(三) 争点1の(一)の(3)及び(二)について

(1) 本件賃貸借物件の賃貸人であった訴外会社は不動産の賃貸等を目的とする会社であり、賃借人であった原告はその営業のために同物件を賃借したのであって、本件賃貸借契約及び本件合意に基づく本件預託金の預託はいずれも商行為であるから、本件預託金返還請求権の消滅時効期間は五年であるところ、本件預託金返還請求権については、本件合意の期限の利益喪失条項によって到来した弁済期である平成四年七月一七日から本訴提起までに五年以上が経過したことにより、消滅時効が成立している。

(2) 原告の主張するように、本件合意に、期限の利益喪失事由が解消する旨の合意は存在せず(そのように解することは当事者の合理的意思に合致するものとはいえない。)、本件預託金返還債務の弁済期が本件賃貸借契約が終了したときであると解すべき理由はない。

(3) また、仮に本件合意に原告の主張するような期限の利益喪失事由が解消する旨の合意が存在するとしても、右合意は賃貸借関係に密接に付属・従属するものではないから、被告が当然にこれを承継するものではないし、仮に被告がこれを承継したとしても、本件合意における本件預託金返還債務の期限の利益喪失事由には、賃貸借物件の譲渡、賃貸人の地位の譲渡もあげられていることからすると、本件においては、本件建物の所有権が訴外会社から被告に移転している以上、いずれにせよ、本件預託金返還債務は期限の利益喪失事由が解消したことにはならず、右債務の弁済期に変更はない。

2  争点2について

(一) 争点2の(一)について

(原告の主張)

(1) 本件賃貸借契約では、賃料の支払時期は、毎月末に翌月分を支払うことになっており、平成九年五月末日現在の賃貸借物件の所有者は訴外会社であり、したがって、五月末日に支払うべき六月分の賃料の権利者は訴外会社である。

(2) 原告は、前記のとおり、平成九年六月二日付けの内容証明郵便で、訴外会社に対し、本件預託金債権と訴外会社の本件賃貸借契約に基づく平成九年六月分(弁済期は同年五月末日)の賃料(消費税を含む。)債権一七八万五〇〇〇円を対当額で相殺する旨の意思表示をし、右郵便は同年六月四日に被告に到達した。

(3) 相殺の意思表示は、相殺適状の時に遡って効力が生ずるのであるから、原告の右意思表示は相殺適状である平成九年五月末日に効力を生じることになる。

(4) そもそも、被告の平成九年六月三日から同月末日までの賃料等の請求は、被告が訴外会社に請求すべきものである。

(被告の主張)

原告の主張する相殺は、次の理由により、無効である。

(1) 平成九年六月三日以降は、被告が本件建物の所有者であり、賃貸人であるので、訴外会社との賃貸借契約は当然終了し、訴外会社は右期日以後賃貸人ではない。したがって、右期日以後の賃料債権は被告が有する。

(2) 平成九年六月分の賃料は同年五月末日が支払期限であるが、賃料は、賃借物利用の対価である以上、賃料の対価である賃借物利用時の賃貸人がその賃料の債権者であるべきである。賃料後払いの原則を定める民法六一四条はこのことを前提とする。むろん、賃料前払い特約もできるが、これは単に支払時期を変更するのみで、賃料債権者を特定する時期を定めるものではない。賃料を受け取るのは、賃貸借契約が双務契約である以上、賃借物利用時の賃貸人であるべきである。

(3) 原告による相殺の意思表示が訴外会社に到達した平成九年六月四日には、訴外会社は既に賃貸人ではなく、したがって、適法な賃料債権者ではないから、五月末日では賃料債権を有していたとしても、相殺の意思表示到達日までには、賃貸人でなくなった日以後の賃料請求権は適法に消滅しており、したがって、相殺の効力は平成九年六月三日分以降の賃料債権に及ばない。

(二) 争点2の(二)について

原告は、争点1についての原告の主張のとおり、被告に対する本件預託金返還請求権を有しているとして、同請求権と被告の本件賃貸借契約に基づく平成九年七月分から同年一〇月分までの四か月間の共益費合計三六万二二九六円の債権を対当額で相殺する旨の意思表示をしたが、被告は、原告に対する本件預託金返還債務は承継しておらず、右相殺の意思表示は無効であるなどとして、これを争っている。

第三  争点に対する判断

一  本訴請求事件(争点1)について

1  本件預託金の法的性質(争点1の(一)の(1))について、原告が本件預託金は法的意味での敷金であると主張するのに対し、被告は本件預託金は法的意味での敷金ではなく、建物の新所有者に承継されない性質の建設協力金もしくは融資金としての性質を持つ保証金であると主張するが、仮に原告の主張するとおり、本件預託金が法的意味での敷金であるとしても、本件預託金返還債務は、被告が本件建物及びその敷地の所有権を取得する以前に、本件合意にかかる期限の利益喪失条項(訴外会社に支払停止・支払不能があったとき、本件建物について差押、任意競売等の申立てがあったとき)に該当する事由が発生したことから期限の利益を喪失したのであり、これにより、原告の本件預託金返還請求権は具体的な請求権として発生するとともに、その弁済期が到来したものであることは前記のとおりであって、既に具体化した敷金返還債務が賃貸人たる地位の移転により当然に被告に承継されるものでないことは明らかであり(最高裁昭和四八年三月二二日第一小法廷判決・裁判集民事一〇八号四七九頁参照)、本件において、被告が本件預託金返還債務を個別的に引き受けたこと等、被告が具体化した本件預託金返還債務を承継すべき特段の事情については何らの主張・立証がないから、被告が本件預託金返還債務を承継したとする原告の主張は、これを採用することができない(本件建物及びその敷地の競売事件における物件明細書及び不動産評価書において、本件建物等の買受人において賃料との相殺後の本件預託金〔敷金〕の残債務を引き受けると記載されている〔甲一〇、一一〕としても、右各記載は、競売対象物件である本件建物等にかかる権利義務関係を確定するものではないから、これをもって右判断が左右されるものではない。)。

2  なお、原告は、本件合意に基づく本件預託金返還請求権の期限の利益喪失条項は、当該喪失事由が解消されたときは、本件賃貸借契約が終了したときに本件預託金を返還することになるとの合意を含むものであり、これにより本件預託金の返還時期は本件賃貸借契約の終了時となったと主張するが、本件賃貸借契約及び本件合意の前記内容のほか、本件合意では、本件預託金返還債務は、訴外会社が本件建物を第三者に譲渡したとき、訴外会社が本件賃貸借契約上の地位を第三者に譲渡したときにも期限の利益を喪失するとされていることに照らすと、本件賃貸借契約及び本件合意が原告主張のような合意を含む趣旨であり、これにより、本件預託金の返還時期が本件賃貸借契約の終了時となったものと認めることはできない。

3  そうすると、原告の本訴請求は、その余の点について判断するまでもなく、理由がないものというべきである。

二  反訴請求事件(争点2)について

1  争点2の(一)について

本件賃貸借契約において、賃料及び共益費は毎月末日に翌月分を支払うことになっており、平成九年六月分の賃科は同年五月末日が支払期限であったこと、本件建物の所有者は訴外会社であったが、反訴原告が平成九年六月三日に競売による売却により、本件建物をその敷地とともに買い受け、同月四日にその旨の所有権移転登記を得たこと、本件預託金返還債務は、被告が本件建物等の所有権を取得する以前に期限の利益を喪失し、具体的に発生していたこと、原告は平成九年六月二日付けの内容証明郵便で、訴外会社に対し、本件預託金債権と訴外会社の本件賃貸借契約に基づく平成九年六月分(弁済期は同年五月末日)の賃料(消費税を含む。)債権一七八万五〇〇〇円を対当額で相殺する旨の意思表示をし、右郵便は同年六月四日に被告に到達したことは前記のとおりであり、原告が訴外会社に対し右相殺の意思表示をした時点において、訴外会社が原告に対し本件賃貸借契約の賃料前払い特約によって既に具体的に発生し弁済期の到来している平成九年六月分の賃料債権(滞納賃料債権)を有していたこと(被告が右債権が取得していないこと)は明らかであるから(最高裁昭和三八年一月一八日第二小法廷判決・民集一七巻一号一二頁参照)、原告の右相殺の意思表示は有効というべきである(なお、被告と訴外会社との間で不当利得返還請求等の問題が生ずる余地があるが、これは本件とは別個の問題である。)。

また、被告は、賃料は賃借物利用の対価である以上、賃料の対価である賃借物利用時の賃貸人がその賃料の債権者であるべきであり、賃料前払い特約は単に支払時期を変更するのみで、賃料債権者を特定する時期を定めるものではないから、賃料を受け取るのは、賃貸借契約が双務契約である以上、賃借物利用時の賃貸人である被告であるとも主張する。しかし、本件賃貸借契約の旧賃貸人である訴外会社のもとにおいて具体的に発生し支払時期の到来した未払賃料債務等は訴外会社と賃借人である原告との間で清算されるべき問題であり、被告が本件建物等の所有権を取得したことに伴い、既に発生した右賃料債権等が当然に被告に移転するものではないし、被告は訴外会社が有していた本件賃貸借契約上の賃貸人の地位を承継したのであって、右のように解することが本件賃貸借契約が双務契約であることに反するものともいえないから、被告の右主張も採用することができない。

2  争点2の(二)について

争点2の(二)についての原告の前記主張は、争点1についての主張と同様に、被告が本件預託金返還債務を承継したことを前提とするものであるところ、被告が本件預託金返還債務を承継したものと認められないことは前叙のとおりであり、原告がなした本件預託金債権と被告の有する平成九年七月分から同年一〇月分までの共益費債権を相殺する旨の意思表示は無効というべきであるから、原告の前記主張は、これを採用することができない。

なお、被告は、反訴請求において、原告に対し本件賃貸借物件にかかる平成九年七月分から同年一〇月分までの共益費残額のほか、同年六月三日から同月末日までの共益費八万四五三五円(二八日分の日割計算による共益費であり、消費税を含む。)の支払をも求めているが、本件賃貸借契約では、前記のとおり、共益費は毎月末日に翌月分を支払う旨の特約があり、平成九年六月分の共益費は同年五月末日が支払期限であったことからすると、右債権についても、同月分の賃料債権と同様、被告が本件建物等の所有権を取得する以前に、旧賃貸人である訴外会社のもとにおいて具体的に発生し支払時期が到来していた権利であり、被告が本件建物等の所有権を取得したことに伴い、新賃貸人である被告が当然に承継(取得)すべきものではないというべきであるから、被告が原告に対し、本件賃貸借契約に基づいて平成九年六月三日から同月末日までの共益費の支払を請求することはできない。

3  そうすると、被告の反訴請求は、本件賃貸借契約に基づく請求として、平成九年七月分から同年一〇月分の共益費である合計三六万二二九六円及びこれに対する弁済期後である平成九年一一月一日から支払済みまで商事法定利率年六分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるというべきである。

第四  結論

以上の次第であり、原告の本訴請求は理由がないからこれを棄却することとし、被告の反訴請求は、原告に対し三六万二二九六円及びこれに対する平成九年一一月一日から支払済みまで年六分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるからこれを認容し、その余の請求は理由がないからこれを棄却することとして、主文のとおり判決する。

(別紙)物件目録〈略〉

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